鉄棒が何かの役に立つの?

社会に有用かと聞かれれば、何の役にも立ちません。屁のツッパリにもなりません。
体を動かしてグルリングルリン。
役に立つかどうかの視点で見れば、指導している教員も不毛な行為を行なっていることになります。
社会に有用かどうかという意図でいうと、教育ではありません。
では、なぜ教育として成立しているのでしょう。

目標設定とその到達が見えやすいから

目標設定とその到達過程のコスパの向上という視点も大切です。
目標設定として、逆上がりを選んだ時に
持ち手
鉄棒を体に引きつける
手の緩め方
勢いをつける
繰り返し練習する
歴史的・経験則的に
できるようになる人が続出する。
そして、この逆上がりの到達過程は他に応用できる。
到達したときの達成感が自己効力感を高める。

これが、跳び箱に変わる、・・に変わるということです。
この繰り返しで、時間と効率、ポイントのコスパの向上を体で感じ取るのです。
しかし、学校現場では工夫が足りません

これが教育の意図をもつということ、難易度順に配列すること

学年により、取り組む体育の課題は異なります。
難易度順になっているわけです。
学年があがるにつれて、課題難易度が高まる。
できることが増えて、その技術を活かしてさらに高い難易度に取り組み達成する。
少年誌ジャンプのドラゴンボールの初期のような流れがあります。

学校教育は工場と同じ画一性で子供の個性は無視

しかし、体育が苦手な子供もいれば、水泳だけが得意という子供もいます。
学校現場では、一律的に指導しがちです。
到達過程は他に応用できる。
到達したときの達成感が自己効力感を高める。

ここが教育の意図として教師が意識したかどうかで子供は変わっていきます。
例えば
水泳だけが得意な子であれば、その得意な水泳のところでちょっと頑張ればできるところを課題としてあげてたくさん課題達成ができるようにアプローチします。苦手な子供であれば、強制はせずに取り組みの意思をこまめに確認しながら、動機付けを高めていきます。本当に嫌な子供には、別の分野で助けます。
逆上がりができないことをコンプレックスに思わせてはいけないのです。

未来を生きる子供達

厳しい社会で目標設定と成果を求められても、なかなか成果に結びつかないのが現実です。
頑張ればうまくいく、成果がでなければ得意分野を洗い出して、できることから取り組む
子供が育つように教育者は意図して指導していく必要があるのです。