スクラップ・アンド・ビルドの世界が私の日常を侵す。

実家に帰り、「早う死んだらよか」羽田さんの作品中の言葉が頭をよぎった。

私は、羽田圭介が好きだ。
第153回芥川賞受賞作となった、「スクラップ・アンド・ビルド」。

この作品の紹介は以下の通り。
「じいちゃんなんて、早う死んだらよか」。

ぼやく祖父の願いをかなえようと、孫の健斗はある計画を思いつく。自らの肉体を筋トレで鍛え上げ、転職のために面接に臨む日々。
人生を再構築していく中で、健斗は祖父との共生を通して次第に変化していく――。

瑞々しさと可笑しみ漂う筆致で、青年の稚気と老人の狡猾さを描ききった、羽田圭介の代表作。 

新しい家族小説の誕生を告げた第153回芥川賞受賞作 
amazon著作紹介より引用
  新型コロナウィルスによる大混乱が少し落ち着いたこともあって、年休をとった。
 実家では、母親のんびりと過ごしている。「スマホの操作を教えて」「録画するにはどうしたらいいの?」
矢継ぎ早に聞いてくる。これで、話は止まらない。父親がありえないほどに食べることを馬鹿にする。
父の食事量が増えるのはそうだろう。
20代、30代の若者に混じって対等にフルタイムで仕事をしている。 
よくもまぁ、これほどパートナーの話題に事欠かないものだ。
「・・・は、私が払っている。」と母が言った後、 
「甘い」と私はしずかに、はっきりと伝えた。
私が苦手な女性のタイプだ。
職場でも、この手の人に辟易としている。人には頼るけど、感謝がない。
見えていないところ、気がつかない(或いは気がついていても無視している)ふりをして、相手の悪口をひたすら伝える。共感が欲しいのだろう。嫌われてもいい。寄り付かないことにしているあのタイプの人だ。
先ほどまで、ケーキを手にしていた母のフォークが止まった。 
母は元来、とても優しい性格でそれ故に仕事場でも利用されやすい立場にあった。
若いアルバイトの男の子に人気がある、目立ちもはっきりした顔立ちで、しかも底抜けに優しい。
 「どうしてこうなったのだろう」かって母に抱いていた像が大きく揺らぐ。
ついこの間も、老人ホームに通っていた女性が、見すぼらしい服装をしていたことを見かねて服をあげたという話をしていた。服をもらった女性が貧しいわけではない。むしろ私たちより裕福だ。

 聞けば、老人ホームの洗濯の曜日が決まっている、服を買いに行くにも出かけることに制限があり、思うように買いに行けない。食事が冷たくておいしくない。たくさんの高齢者を見ている中の一人に過ぎないので、ワガママは一切聞いてもらえない。

結局は愚痴だったのである。母は、貧しくとも体が不自由でも自宅で好き勝手に生きている。
「できなくても、私はできることで楽しむの。」
それを聞いた女性は、「あなたみたいに不自由な立場でも、私よりは自由だわ。」とついに老人ホームを退所するに至った。
そんな彼女を母は、退所を勧めるわけでもなく「なければないでいいじゃない。歩けなくてもいいじゃない。できる範囲で楽しみましょう。」そんな笑顔で切り返していた。
 
 若いアルバイトの子が仕事に就けなかったときもそうだ。「一緒にまた働けて嬉しい。」優しい言葉といつもと変わらぬ様子。
私の中では、そんな母であった。

職場と学校、家だけで過ごすと、自分の変化に気がつかない

 自宅で父への軽蔑。生活費も私が出している部分がある。
私は聞き返した「家賃を払わなくていい立場、修繕も材料費だけでしてくれている。人件費は1日1万以上かかる。」多分、母はこういった理詰が嫌いだ。
しかし、本音もしっかり伝える。
「 父へ感謝しろとは言わない。しかし、ハードすぎる仕事を辞めようか迷っている父に対してその態度を取り続けたら、来月には毎日父親とずっと四六時中過ごさなくてはいけなくなるよ。」
父は、ある分野の専門家である。たまに弟子入りを志願されるほどである。それほどの人間であっても、生活のために不自由な体をものともせずにフルタイムに働いている。だが、陰口を叩かれている。
確かに父は潔癖症であるし、片付けに及んでは徹底するタイプである。
ていねい性質なのである。
先ほどの、私が帰宅するなり矢継ぎ早に聞きまくり、愚痴を言う、これまでの母と違う姿を見れば、父親は「ボケた」と呟くだろう。
「老いた」とは言わないだろう。
私は母に
「今のように気ままに寝たいときに寝てごはんを作りたいときに作り、テレビや習い事に興じる。これは天国だ。」
もしも、父への馬鹿にした態度で日々過ごし、仕事を辞めようとしていることを、他人事として放置するなら、地獄行きだ。
母はキョトンとした。
「父親に四六時中監視されているような状態になる。そして父親もあなたの根城としての言動に、居心地の悪さや仕事をしていたノリであなたを批判するだろう。それが、毎日続く。耐えられるはずがない。」
そこまで指摘してようやく顔色を変える。
「髪を切りに行くことでもブツブツ言うのに・・・。彼は自分で散髪しているから・・」まだ、馬鹿にした口調だ。
「問題は、家に夫婦で四六時中いることになることだ。できれば、父親には同窓会長でも・・の名誉職でもついてもらって、一日でも家をあけてもらう。そうすれば、息抜きができる。」
いきなり夫婦で24時間毎日なんておそろしい。
「川口さんもそれで奥さんがノイローゼになっていたわ。私もなるのかしら」
それは知らない。
「まずは、自分がこの天国の状態を少しでも維持できるように、父親に仕事にでかけてもらうほうがいい。」
「そうねぇ。」
ようやく自分ごとで考えられるようになった。
「父親がいなくなれば、いなくなったで修繕や家のことなど気が付かずにしてもらっていたことしないといけなくなるよ。」
「それは困る」
ようやく考え出した。
あぁ、結局自分のことばかりか。
「早う死んだらよか」羽田さんの作品中の言葉が頭をよぎった。
人をそんな風に言ってはいけない。学校ではそう教えるだろう。
「いや、そうではない。」
こう思うことはときとしてあるものだ。その感情まで押し殺してしまうのは違う。言葉にはせぬが、自分が何か汚れた人間のように感じ悲しくなった。
私も同じ状況になったとき、きっと彼女と似た言動を繰り返すのだろう。
年老いて、助けてもらうことが当たり前になり、日々変わらぬ日常に噂話ばかり、ときには足をひっぱりをする。
職場と変わらない。
自分の生き方は自分で変えなくてはいけない。

羽田圭介は、登場人物と重ね合わせて筋トレをする

 おじいちゃんの「はよう死にたい」の言葉を真に受けて、願いをかなえるべく、筋トレを始める。
羽田さん自身も筋トレ、鶏ハム作り(筋肉を作る)にはまっていた。そして、出版社の意向ではなく、自分のおもうような作品を作ることができるように、テレビでお金を稼ぎ、アメリカ株中心に投資をしていた。
飄々として生きているように見えた羽田圭介さんから私は現代に生きる若者の言葉にならぬ閉塞感や悩み、葛藤を感じ取る。

羽田さんの描く力で世にでた作品。一般的に、ネトネトとした本では売れないだろう。
羽田さんの当時の思いを投影した作品なのだ。
そう思うことにした。

「はやく死にたい」と口癖のように言う祖父。本音はもちろん違う。
長く生きること、生活が固定化、変わり映えがなくなる中で自分が老いてできることが少なくなってくる。母は、弱ったことを口走り、楽をしてやろうとする魂胆が見え透いている。
母も狡猾になった。
そして、狡猾さ故に自らの天国の暮らしを脅かしかねないほどの墓穴を今、彼女のありあまる時間で全力で掘り進めている。
人は、肉体の老いの自覚とともに精神の死に近づく。
新型コロナが蔓延し、注意喚起される中、感染した高齢者がジムに通い感染を広げる。肉体の老いを食い止める自分の活動とひとさまに対して考える力がついた言動が浮かばなくなる。
新型コロナに感染したと言いふらしながら、あちらこちらの店を行来する。これは、いわば精神の死だ。
もう他人がどう思うかと引き止めたり、考えたりするストッパーが彼の精神にも彼らを取り巻く人間関係にもない。
一方で、この報道に心を痛める高齢者もいる。
私は、肉体の老いを幾ばくかの運動で整えなくてはいけない。
精神の老いを、多様な人間と付き合うことで食い止めなくてはいけない。
そして、抗いながらも老いを受け入れていく。
生きているが故のエゴに気付きながらも、「死」について受容する準備をはじめよう。
学校教育では、タブーな「もう死にたい。」という言葉。言葉狩りの対象である。
いつか訪れる死に対しては、この身の回りに起きている死への受け止め「今の私の気持ち」を客観的に記録し、いつか父母と同じ年齢、状況になったときにもう一度振り返ろうと思う。

「そうならないために」 
ではなく、時間をかけて
「自分ごととして、自分の未来をよりよく変えていくために」
そのような思いを抱きながら、家を出た。
帰り際に、彼女の大好きなお菓子を買った。
私は、慌てて引き返して家を訪れた。
母親は驚きながら出迎えた。
「これ好きだったでしょ。」
私が彼女の好物を差し出すと、彼女はいつもの笑顔に戻った。
私も無愛想に突き出し、そのまま帰路についた。
私がかって知っていた母の笑顔を思い返しながら。
 
・本記事はフィクションです。自身の私的小説で妄想の記録であることにご留意下さい。